アキヒロの日誌

理系大学院生の戦闘記録

自分は「勉強適応障害」なのではないだろうかと考えている今日この頃

f:id:programingchance:20190807122306j:plain

WokandapixによるPixabayからの画像

 

自分は大学院に入学してから二ヶ月足らずで適応障害という診断を受け、半年間の休学をした。それから今年の四月から復学したものの、5月から精神的に体調がまた悪くなり、現在(8月初旬)まで大学院に在籍はしているものの研究室に行けていない。

 

programerchance.hatenablog.jp

 

どうしても研究室に行こうという気が起きない。

研究する気が起きない。

勉強する気が起きない。

勉強が面倒くさい。

勉強しなくても研究しなくても別に死にやしないし。

 

そんな事を考えているうちに実は自分は元々勉強なんて好きではなかったのではないかと思うようになった。中学生までは勉強すればテストで良い点数を取ることができ、親や周りの友達から称賛され、それが嬉しくてその感覚が癖になり勉強に励んでこれていた。しかし高校に進学してからは、県内のそこそこ有名な進学校に入学したこともあり、周りのレベルが上がるとともに自分を称賛してくれる人はいなくなった。

 

それからは周りが勉強しているから強制的に勉強する、周りが大学に行くから自分も大学に行くといったような感じで、周りに流される人生を送った。高校生になっても明確な自我*1は芽生えず、「心の底からは勉強なんてしたくない」という気持ちは確かにあったが、それを抑え込んでいた。大学に進学しても親に金を払わせて学生をしているという恵まれた環境・立場にあって、勉強が辛いから大学を辞めたいなんて甘えたことは口が裂けても言えず、「勉強したくない気持ちを持つことは間違っている」、「勉強すれば世界が広がる」と自分に言い聞かせ強制的に勉強していた*2。勉強したくないという素直な感情を抑えることで自分を保っていた。その感情を認めてしまった日には、自分が周りから置いていかれ誰にも相手にされず、寂しく死んでいくんだと考えていたほどだ。

 

余談だが特にサイエンス(物理化学や数学)を勉強する時に持ってしまう、ある感覚が自分にはある。それは「固く戸締まりがされた脳内の門を無理やりこじ開けて、脳の思考領域に勉強内容を押し込む」といった感覚を毎回持っているのだ。めちゃくちゃ踏ん張らないと自分にはサイエンスを考えることが出来ないし理解も出来ない。

 

 

高校から大学院に在籍している現在までの勉強の記憶は、基本的に「苦しい」、「しんどい」、「面倒くさい」という三つの言葉に集約されてしまっている。「楽しい」なんていう感情は合計して2秒くらいしか感じた事が無かった。

 

 

そんなふうに自分に負荷がかかりながらも、半ば強制的に勉強に励む日々を送っていたため、自分というものを本質的に理解していなかったし見失っていた。

  • 自分とは??
  • 何がしたいのか??
  • 勉強したくないという感情を押し殺し自分を理性で操作して勉強した先に何があるのか??

 

 

どんどん哲学的になってきた。でも避けては通れない事でもある。

 

 

もう正直勉強、特にサイエンスの勉強はあまりしたくないと思っている。鉛筆を持ちたくない。気分も悪くなる。

 

 

 

勉強はすればするだけ自分が見ることの出来る世界が当然広がるし、生きていく上でも必要不可欠な行為であることは理解しているつもり。本ブログでは「勉強適応障害」というありもしない名前の障害を作ってみたが、要は勉強そのものが自分には向いてないのではないかと思う。

その障害とやらの自分の特性を乗り越えて勉強を好きになること(せめて好きになれなくても努力出来るようになること)が正解なのか。

それともその障害を感じていることこそが自分のアイデンティティを表しているから勉強という行為をここで一旦止めることが正解なのか。

そもそも何をもって正解とするか。

 

 

 

 

もうよくわからない。

*1:何をもって自我という言葉の定義をするか、正直まだ良く分かっていませんが、少なくともこれがこれはやりたくないというような気持ちだけはありました。

*2:やりたいことが決まらないうちは強制的にも様々な勉強に励むことは悪いことではなかったなと思いますが、もう少し不真面目になって余裕を持って勉強だけはない生活をしても良かったのではないかと少しばかり後悔しています。